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暇なので仕方ないと思うんだ。
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm2506874

そうなんですよね、大概はエロ・非エロで名義を分けるらしいです。声優さんって。
まあ「差別」っていうと短絡的なような、仕事が絡むとなんとも簡単には言えないとこだけども...

とりあえず後世の人がこれをネタに「性と商業行為に対する社会的云々」とかをまとめるのかと思うと可哀相。

不文律として「人間かくあるべし」を唱える社会が差別的だとするなら、これはれっきとした差別です。別に僕はそれに問題があるとも思わないけれど、やっぱり差別です。それも君たちの大好物であるところの女性差別。
大事なことなのかもしれないので3回言いました。

まあ性的な問題が絡むと、女性の方々自身がそれを「望んでいる」とか「避けている」とかいうことを唱え始めるやつがいてややこしい。
差別の話をするならば基準をまず打ち立てて、あとは見解の相違だの現状だの構わずにガシガシぶっ壊していけばいいのだが、「いまの社会がそれを求めている」という、とっても緩い条件をあてるだけで差別に違いないものを差別と認めない、そういう弱さを保存する社会というものがあるもので。

だからやっぱり法律論で語り合う、差別を差別として有効に問題にするにはそれが限度なのかもね。
まあそのような意見の相違を停滞ではなしに運動に変換出来るのだから、現状よく頑張ってる方だと思うけども。

人間の頭の中に立ち入って「差別」という言葉を使うのは、差別を問題だとするための理論体系自体と根本的に食い違う。だから本当は無理なんですよね。
昨今の教育が差別を取り除こうとするのは、差別をなくすためではなく、差別蔑視理論の前提となった諸思想により馴染む思想傾向を建設するためであって――私見に基づいて「問題のない人間」を創ろうという目論み、つまりこれもまた「差別」であります。

こういうあからさまに自己矛盾する運動を支えるのは「理論」という方法が一身に浴するところの信頼、そして良心的な追認。
それと前提部分の強制だな。差別論は(悪いことではないが)根本的に「一等キリスト国家」を評価するための法制評価に過ぎない。


んー、でも僕はその運動に反対するのではない。
もし人間がそうしたいなら、そうすればいいだろう。

とは思うのだけれど、今はまだ「論理の自明性」を根拠にした人たちが多すぎる。
もっと暴力的に野蛮に、この運動が破壊であり攻撃であり差別であると標榜できるような強いやつらがぞろぞろ出てこないと駄目だ。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm3513146

ということでエロゲネタ。歌ってる人を何故自分が知っているのか20秒考えた。
ぶっちゃけこれ貼りたかっただけなんだけどね。
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