忍者ブログ
暇なので仕方ないと思うんだ。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


要するに、人間という一集団が存在すると思えば、確かに「自然に人間性を見出す」。

だけれど、僕の予感としては、一人の人間が人間として見通しを求めるとき「人間に自然性を見出す」。

だって、そんな観念的な自然像を集団が共有するっていうのは、相当高度な言語行為じゃないですか。
そういうハイテクノロジーな方式がアニミズムの根底にあるとは思えないんだよね。

まず人間がいて、相互理解の不可能とか、誰かの超人的能力とか、そういうものを見知った時にそれを自然要素に還元して自分即ち人間から切り離してしまう。
別にこの考え方は十字架教に寄りかかっているわけではなくて、例えばアニミズムは当然として、多神教には人間の形態を持たないものたち(大蛇、剣、霊獣、力そのもの、等々)が入り込んできているのだから、一概に「自然に人格を云々」ということは出来ないんじゃないの?
と、そんなことをさっき思いつきました。

何者かを自己の領域から切り離すことは同時にその領域内に留まるものを消極的に定義していくことになる。
というような過程で「人間」は成立したのかもしれないねーとか思いながらマックで寝てたのね、昨日の僕は。

こういうことは多分誰かがもう考えているのだろうけれど、僕は自分で考え付くことに大いに満足できる人なので。
「僕が最初に思いついたんだ!」っていうことではなくて、考えること事態が楽しい。言語は意思疎通のためのものでありながら、僕が自分のみにおいてこれを用いる。今はまだ対話の形式でしかあり得ないけれど、いつかは...


というわけで、CiNiiで(ちなみに大学のネットワークから操作して個人用のアカウントを取得できます)アニミズムを検索してみたのだけれど、あれなんだね。「アニミズムの中の人」が魂魄だと言ってしまえばそれを魂魄として検証するんだね。

どうかと思うなあ。
昔の人だってどうせ近現代人と同じで、適当にハナシ作ってから筋金を通したに違いないよ。

僕もよくそうするし。
浮気してから相手のせいにするでしょ。多分そういう感じ。
PR

[199] [200] [201] [202] [203] [204] [205] [206] [207] [208] [209
«  Back :   HOME   : Next  »
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]