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暇なので仕方ないと思うんだ。
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レポート書いてた。ていうか、書いてる。
そういうもんだと思うんだ僕は。

まあこれ書いてもさっぱり出席してないやつだし、単位こないんだけどね。
妄想OKのゆるゆるレポートは書くこと自体が楽しいし、どうせブログに貼るだけだから、2万字くらい書いてやる。

不可ありがとう!
って具合でな。

さて、あと17000字。
とりあえず序論掲載。




「一人称の死」「二人称の死」および「三人称の死」という表現を、私は折に触れて耳にする。
これはおそらく今日相応の頻度で使われている表現である。ただし未だ統計的な調査が無いため、差し当たりgoogleを用いて調べると、それぞれのインターネット上で確認可能な表現件数はおよそ2000前後であり、これは、例えば「文化資源研究」「臨床死生学」などの表現と同様の頻度と見てよい。

「一人称・二人称・三人称の死」という考え方を提唱したのは誰であるのか、多くの人間が曖昧に語るようになっており、いまひとつ判然としないまま使われることも多い。
この言説はフランスの哲学者ジャンケレヴィッチが最初とされ、彼によれば二人称の死が死生に関わる考察において重要な意義を持っているという。
また近年では柳田邦男が唱える「2.5人称」など、汎用的な使い出と広がりを持つ概念として受け入れられているといえよう。

このように便利に使いまわされている「一人称の死」であるが、これは決して今用いられているような定義で用いるべきものではないと、私は考える。
何故なら、一人称・二人称・三人称という並列表現は、会話の主体としての「人称」という言葉が秘めている可能性をあたら消し去り、かえって議論を一つの世界観に押し込めてしまう危険を持つためである。
一人称の死と二人称の死を等価なものとして書き起こし、単に「私」自身にとっての違いとして考える現況の思考過程は、一人の人間が生まれ死に行く過程を考察するに際して、大きな足枷たり得るものと考える。
なおこの考察においては、ジャンケレヴィッチによる説に基づき、今日の日本で用いられている「一人称・二人称・三人称の死」という分類法を「人称化」と呼ぶこととする。

私はこの考察を通じて、「一人称の死・二人称の死・三人称の死」という不適当な人称化ではなく、「私・私の死・他人の死」という三者をそれぞれの人称の立場に当てはめる妥当性を述べ、またこれをもって死の受容として有り得べき死生観の一類型を示していくこととしたい。


これだけ書いて800文字しかないのかー。
序論はもうちょっと長く詳しくしてもいいのかなあ、よく分からん。

まぁもう少し書いてから寝ることにする。
やはり6000くらい書いてから寝たいが...


さて、「ちなみに現地では例年、互いに助け合いながら深夜までテクストを予習する人たちも見受けられます」とかいうインターウニの参考文献の苦行が既にして開始されているわけです。
↓どうして当日まで2週間なのに出揃わないの? ○○なの? ○○の?
http://www.interuni.jp/2009s/texte/

このイベントを終わらせる頃がちょうど20000字の提出期限で、その後はずーっとひま。
文学部のレポート期限はのんびりだからね!

僕は授業も少ないし、4,5本かな? まぁどうとでもなる量ですよね。
どうにもならない量を出されたらどうにもならないんだから当然です。

一応自分のために整理しておくと

・博物館展示に関して
→ 土門拳記念館をテーマに

・美学芸術
→ (テーマ未定(教授が))

・統語論
→ 独仏英の比較でもやれば誤魔化せるのでは...

・中世語
→ (´・ω・`)

・文献利用法
→ (´・ω・`)


まあこれから考える。
っていうかレポートこんなにあったっけ?


ごめんね、最後にちょっとちょっと。

どうしてさあ、人間が死ぬことを平らな板の上の出来事にしてしまうわけ?
そんなに神様が好きなの? ばかなの? しぬの?

宗教家と同じ動機だよ、それは。
愚民闘争だ。
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