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暇なので仕方ないと思うんだ。
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童貞乙と言わざるをえない(´・ω・`)


http://apl.suntory.co.jp/wnb/cocktail/top/temp__top
↑人類の叡智

この記事名と最初の一文。
これ実は何日か前にとあるところに対するレスポンスとして用意していたものだったのだけれど、下書きを仕上げ損ねて今日に至る。

至る。夏とか冬とか。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm5549990
吉祥寺が本当に吉祥寺で、そこだけ感動したね。僕が吉祥寺を「僕の街です」とか言えるはずもないのだけれど...
中野の東西あたりが(確かそのあたりに製作所がある)中心なんだろうけど、東京の西部にこだわりすぎだぜ、こいつは。

関連ページ
http://workingnews.blog117.fc2.com/blog-entry-2101.html

我が家ですか?
ク アッ ド コア なめてんの?^^

もうとっくに21世紀ですよ皆さん。PCを買い換えましょう。


さて、せっかくなので最初に戻り、先日の続きを書き起こしておきます。

この話はブログでしたことあんのかな。ヒトにはよく話しているけど。
僕が最初に「哲学的」なことを考えたのがいつだったかなーっていうと大体14歳くらいの時で、テーマは至極分かりやすく「好悪」と「生死」。

一年、っていうと言いすぎだけどなあ、半年くらいは確実に考えたんじゃないかな。
それでちょうど入試を挟んでとってもアレな高校生活に入っていった訳ですけど。

んー、生死の方は文字で書けるような結論じゃなかったからな。
好き嫌いの話にしましょう。


当時の僕は、人間が好きか嫌いかということと、愛情と憎しみと、それぞれが対になっているものと考えていて。
や、今でもそんな風に思ってますけどね。あんなふうに分析しても満足できなくなっただけで...

ともかく説明していくと、好きと嫌いはパラメータで、愛情と憎しみは属性なんですよね。

可愛いところが好き、優しいところが好き、忘れっぽいところが嫌い、素直なところが好き。
こういう風に個別的な判断は積み重なって全体として好きか嫌いかを決定しうるという考え方(例えば全体を考えてみると嫌なところが多いなので嫌い、というようなもの)を僕はまず最初の解釈として導き出した。

んー、そうすると、人間関係がこんなに固着するものであること、説明できませんよね。
さっさと別れればいいのに...

そんな簡単に誰かを好きになったり嫌いになったり、家族の特別感情がチャラになったりしないしね。
これが不思議だなあと。


で、気づいたんだけど、

憎悪<嫌い<好き<愛情
っていう前提としての感覚がいけないんだ。これはあんまり実りがない。

好き嫌いは判断の基準ではあっても、判断そのものでは無いわけで。
憎いか愛しいかは、それを参考に定められるとは言っても、必ずしも対応しないんだわ、多分。

愛情がとりわけ問題になるのは、つまり好悪の設定なんざ全人間に対してやるなんて無理なわけで、そういう面倒な多数者は好きと嫌いに即してその場で評価してるだけ、だからこそ特定少数である愛情と憎悪の対象者は「特別」なんだ、きっと。


まあこういう感じで考えてたわけね。
僕の今の考え方でちょこちょこ補正かけてるけど。

変なことだけれど、僕としてはあの頃に何となく作り出した理屈に適合するようにしか思考思索できない。
一度僕が生み出した言葉の組み合わせを無理やり理屈で回収したいんです。理屈なんてその程度のことだと思うのもあるけれど、自分の言ったことくらい使っていきたいからね。

ああねむい
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