忍者ブログ
暇なので仕方ないと思うんだ。
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm7532719
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1275037

アサヒのザ・マスターっていうビールが結構うめえの。

別に取り立てていうほどドイツ風でないとは思いますけど...
エビスと並べられるレベルではあるんじゃなかろうか。


細かいことを書き得ない酔っ払いとしては、なんか思いついたことだけを書いておきたい。

んー、前に書いたように、というか、前に書いたことが意味不明すぎて僕も分からんのだけどね。
僕が感覚器官を駆使することで、僕が「世界を存在させている」ということと、同じ事をやっている他人に対して「僕が存在させている世界を押し付ける」っていうことと、僕はこれ、どちらも「存在させる」っていう表現をしていたようですね。

認識するとか、議論するとか、共有するとか、言葉を分けることは却って非本質的であると僕が思うからこういうことになったんだと思いたいです。
とりあえずこの辺の混乱は投げておくが...

とにかく、僕は僕の世界を生きている。
これは揺るがないところです。


さて、人間が死ぬことについて。
他人の死が自分にとって、自分自身の死と異なっている理屈は明らか。

世界の成り立ちからいって、僕が死ねば僕の世界は――つまり世界はおしまいです。
だけども君たちは大概の場合、自分が世界をそういう風には見なしていないと考えている。世界は客観的に存在しているものであり、そこで自分は生きているに過ぎないのだと。

だのに本能的に死ねば世界がおしまいだと感じるのだが、そのような世界観を有していないこと、この矛盾がきっと死の恐怖なんじゃないかなあ。
これは理屈として面白いから書いているだけで、それ以上の深い考えはないんだと、一応言っておきますけどね。

こういう重大な事件が(理論的には事件ですらありえないが)死に行く者に与えられるときに、それを如何に僕が外観から考えてみたところが、僕にとってのそれと彼にとってのそれ、重みを等価にすることは絶対に不可能ですよ。世界を道連れにする狂気と並び立つのは無理。

死ぬのが怖いのではない、説明不可能だから死は怖い。
こういう恥ずかしいことを言うやつは一度実際に死んだほうがいい。死が怖いのはそれが自分の死だからだ。そんな当然の理が分からないのでもあるまいに。
そもそも何故に説明不能と思うかと言えば、それはタテマエに依存して死んでいくほど君達がバカでなかったからだ。万物に優しい世界観は、全き終焉としての僕の死を説明することは出来ないのが当然である。

そして例えば死に行く他人と、君の世界を共有支配しているならば、それはやはり世界の有様そのものに影響を与えざるを得ないだろうな。
心中とか後追いとかね。


死からの逃避は色々ある。
一人で死を受け止めるように思えるけれども実際は神がなんとかしてくれる、とか、実際は生まれ変わるだけなのでシステム内の立場は何も変わらないんだ、とか、この死はあのヒトの為であって共有世界はこれからも存続していくんだ、とか。

ともかく自分が死ぬときに世界を丸ごと滅ぼしうるような胆力は多くの人間の備えていないところである。
「諸君は我らの遺骨をいつの日か大理石の棺に納めるだろう」とは、幾多の世界を閉ざした人間たる彼の、なんとも皮肉な「未来」ではないか。


永劫回帰は常に、等価な言いかえとして瞬間生の肯定であろう。
今この生まれ来る瞬間が回帰するならば、最早時間など意味を成して人生を規定してはくれないのだから、自分はあるだけの限りで瞬間を生きればそれでよい、ということになる。

そうすると僕の考え方で、しっくり調和するんじゃないかなあ。
今この世界をただ一つ僕にとってありえる世界の有様として生きる。これこそ人間の向かうべき姿ではないか、千年王国や西方浄土へと「死後の人生」のプランを練ることではなく...


殺人は――敢えて殺人と言うが――世界を閉ざす行為として禁忌なのだ。
だから僕の考えでは単純に、意識の無いものに対する殺人は罪としてありえないことになってしまうようだが、そんなことは無いはずである。

その生が存在させている世界を閉ざすだけではなく、殺人は、その生を存在せしめている総ての人間に対する挑戦である。
存在行為の主体にして客体であるということに生きた人間の価値は見出されるんだ。

だがこうして、全く同じ理屈において、胎児への殺人は容認される。
彼には存在させている世界が無く、また彼を存在せしめている人間が同意するならばそれを殺しても誰の不利益でもない、という、現在は主として母親の判断によって。

だがこの時でも、総ての事実を存在させているのはただ殺人者の意志だけであるから、これを他人が制御しようとして立法を行ったり、または奨励したりということは当然にあってよい。
それは世界を存在させるものとしての、僕であり君であるところの者たちの、積極的な義務ですらあるから。

僕としては「殺人は一切認められるべきであるが、事実の認定は単に殺人者にとっての正当化であり、社会的には別の問題となる」といったところかな。
断っておくけど、実際既に人間はこういう風に考えて生きているということを、僕はつらつら「理論的に」「説明」しているだけですよ。

そもそも、閉ざす行為が禁忌なのは、閉ざされては自分が立ち行かないからだよね。
これは恐怖と呼ぶべきか当然と呼ぶべきか、考えてみると難しいことですが、僕としてはこれは憤怒であると思う。

十全に世界を支配する僕に対して、僕の世界を閉ざそうなどと暴力を用いる輩は排除するよりほかないという怒りとしてね。
そうするとやっぱりどんな人間を殺すことも同時に肯定してしまうんだけどね。でもそれは「仕方ない」とか「問題」とかではなくて、必要なことなんですよ。


だって整頓された理屈に従うだけで生きていくのは、人間の代でおしまいなのだから。
PR

[221] [222] [223] [224] [225] [226] [227] [228] [229] [230] [231
«  Back :   HOME   : Next  »
ブログ内検索
忍者ブログ [PR]