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暇なので仕方ないと思うんだ。
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ドイツ語の発音を練習してます、ちょいちょい。
口をはっきり動かさない東北弁がこういう時に足枷になるのは前からわかっていたのだが。

くっでねっどべごんなっぞ
(食べてすぐ横になると牛になってしまいますよ)


んんん。ヒトが早く寝たいときに限ってこういうことが起こる...
こういうことは人間の顔を見て昼間に話し合いたいものだよ。

なんつうの、直線的にバーカバーカとか
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1265635 ←字幕があまりにもひどい死ね
言ってもいいんですけど、そう
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2145848 ←同上
いうのも生産
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3600844 ←21:30くらいからが楽しい
性がないし
http://www.nicovideo.jp/watch/sm7527644 ←平和
ね。

ちなみに僕は地声が好きです。


そもそも心中が世の中にあって、そして非難されるようなことは、ともに死を見つめすぎている連中の考えがちな結論ではあります。
死んだらチャラとか、死んだらオワタとか、そういう考え方がどこまで人間に当然なのか、僕はすごーく疑問なんですけどね。いやまあ人間には当然だとしても...

中身の無い小難しいことは言わないように気をつけますね。
僕自身が分からなくなるので。

あ、先に言っておくと、白山のあたりでビリヤードできるっぽいよ。
誰か一緒に行きましょうよう。


ハイデガーの『ニーチェ』はとても面白かったですよ。
簡単にまとめてしまえる本ではないので、今僕が引きたいところだけ引っ張ってくると

「……ひとつの問いに、いよいよ言い分を認めざるをえないのではあるまいか。……すべてが既にあった通りに回帰するのだというなら……この思想はなんの重しにもならず……むしろ決断と行動の重荷と重味を、計画と意欲のあらゆる意味を、われわれから奪いさり……溺れさせることになる。その上、この思想は……すこぶる古い代物であり、宿命論という形で東洋の歴史を砂に埋もれさせた思想なのである。」(p
468)

「汝が次の瞬間を、したがって各瞬間を、最高の瞬間へ形成して、ここからの帰結を記録し確保するならば、この瞬間は回帰することになり、そしてそれが、既にあったところのものになるであろう。《永遠が賭けられているのだ》。しかしこの永遠は……この瞬間においてのみ……汝が自分自身にむかって何を意志するか、何を意志することができるか、ということにもとづいて決定されるのである。」(p
472)

マルティン・ハイデッガー 細谷貞雄監訳『ニーチェ I ― 美と永劫回帰』 2006/平凡社


ニーチェが語った永劫回帰と超人について、およそ僕の知る限りではありますけれども、ハイデガーほど魅力的に解説したヒトは他にいません。
今でも多くの場合に、なんといいますか、児戯に等しい抗弁術で他人の言を覆して悦に入る、そういう輩は絶えないものですのに、ハイデガーはまずこの書の始まりにおいて「対決とは真正な批判であり、ニーチェの思想が発揮する力量を見定めるためのもの」と断言しています。この一文ほど、僕の心を楽しませたものはかつて無いといえましょう。

例えば、これは僕が前から気付いていたことではあるのですが、ウィキペディアで永劫回帰を引いてご覧なさい。
そこに展開する論のなんたる浅薄で意志薄弱なことか。

歴史が物質の有限ゆえに繰り返すことは「自然科学的観点に立てば……空想の域を出ない」だと。
このバカが。誰がそんな話をしているのだ。


この記事について僕が書き換えたいとすれば(ニーチェの解釈として適当か否かは定かでないが)超人は「今ここにある生をむやみに肯定する」盲目的な生の礼賛者ではなくて、「自分として『またこのように生きたい』と思えるような生き方を意図し、実施する力を持つ」っていう風に言いたいね。

ハイデガーの語る線に沿って僕が考えますと、人生が一度きりなんて考え方は特別視であって、それはつまりかけがえの無い一生、過ぎ行くもの、次につながるものとして現在を生きることになる。
思うに、そういう宗教生活は誕生から死亡へと短縮可能なのではないでしょうか。その間に何があるか、ということがテーマとなるからね。

ま、本文では、永劫回帰の思想が、決断する緊張を人間から奪ってしまうのではないかと続く。
その時に押し寄せる虚無感が「東洋の歴史を砂に埋もれさせ」たと、彼は言う。見事な見立てだと思います。

そしてさりげなく出てくる「意志」という言葉。


力への意志。
もう説明も出来ないほど面倒な言葉で、とても面白い言葉で。

この際には思い切って僕の考えだけを書くことにして、ニーチェとハイデガーについては触れないことにします。

人が悲劇的だとすれば、それは世界が流転するからではなくて、流転する世界の中で全てを知っていなければならないからです。
僕は前に言葉遊びで「知らないものなどない」と言うことを考えたけれど、最近はそれを「存在していないものはない」と言い換えています。

つまり僕は世界丸ごと全部を存在させなければならないんですね。
その理由は簡単なことで、世界はどうも僕だけが存在させているわけではなくて、各自の世界を主張する人間どもが大量にいること、彼らと折り合うべきことを僕が見知っているからです。

僕の世界の中に他人はいる、しかしてその他人もまた世界を存在せしめる者として僕に触れる、この相克こそが哲学的/人間的好奇心の根源であると、僕は思います。
そして、他人に対して僕の世界を――何が存在するかという認定に用いるラベル、すなわち概念――強制することこそが、僕が考える力への意志です。

人間の平等とか、全人間に君臨する神の座とか、こういうものは、互いに世界の主観者であることを主張する手間を放棄する逃走行為として僕は解釈しているんですけどね。
この話は長くなるので辞めておくけれど。

要するに今ある用語で言えば「世界は主観的」なんです。客観にあたるものを僕は認めませんので、それはあくまで主観風・客観風という表現技法の一つに落ち着くわけですけど。

最初はどうだったか知らんが、今はこの手間を慣習がこなしてくれます。自分で考えなくても生活方法は出来上がってるってわけだ。
道徳観とか倫理観とかえらそうに言ってみても、大抵の場合それらにおいて問題になるのは「いかに慣習を適応させて世間をなだめるか」というような話です。法曹みたいだね。


僕はこんなことを考えて、ここを下敷きにして死生の問題を考えているのです。
もっともっと書けることがあるはずですが、2時を回ってしまうのできょうはこれまでかな。

明日はもっと具体的に「やっつける」作業にかかります。
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