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暇なので仕方ないと思うんだ。
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ああいう類の考え方はちょっとね。

国土の概念は、国境とされる線をフェンスによって固定し守備する軍勢を組織するだけの技術が生み出されたことによって、疑いようも無く変質する――
その必要はないにも関わらず。

可能だから、するのだ。
なんという恐るべき人間の本質だろう。

で、勘違いする人間がいるから困るのだが、例えば民法において時効の利益をあらかじめ放棄することが出来ない(例えば、時を経れば「踏み倒せる」債務に関して、そうしないと前もって約束し契約する)のは、別に時効についての詳しい定義が必要だからではないし、ましてやそれが「正義に適う」からでもない。
法的に、そのような規定が最も多数の利益を擁護するからそうなっている(先の例で言えば、踏み倒さない約束が可能なら貸す側は間違いなくそれを要求するため)に過ぎない。

国境を定めるのもただ利益の問題に過ぎないのではないのですか。
倫理だ人間性だというものとは離れて、社会のシステムは「穏便な利益」のために構築されている。

何が利益かと言うとまた問題になるのであんまり今は追及しないが...
利益を擁護するため、という趣旨を受け入れること自体が、ほぼ大まかに利益と言うものを定めていくことになるのではないかなあ。

放置しておけば一定多数の人間が欲して持ち去ってしまう諸物およびそれらに関わる権能、というような感じですかね。利益って。
そうすると不利益は自己の欲さない諸物や自体を強制される状況というようなことになるのか。

法倫理やってるやつでてこい。


ま、法律があるのは今日大量の人間が一緒に生きているからであって、なんらかの正義があるからではないという風に思うんですね。
法律は各自己に基づいて作られる、ちょっとしたモードですよねー。

だから、立法の最中に倫理と正義と宗教を語る人間は誠実ではないな。
法が許しうるパターンを洗い出すのは不義を咎めるためではなく、個々の主観的な利益を擁護するためなのであって、宗教的な不愉快や「冒涜」を回避するためではないと言うことを、やっぱりよく分かっていない人間が多い。

こう考えると生ける者同士は容易い、生者と死者の関係も容易い。
何となれば法体系は今ここに生きている者、人間のためのものなのだから。ただ幾許かの理由によって、自らの死の瞬間から行使さるべき意志をもつことを、社会がシステマティックに担保しているだけなんだからね。

問題は死者たちの係わり合いだが、これは文学活動に属するものであって。
倫理論者は死んだ人々と死すべき己を哀れんでいればよい――


ねえ、君たち。
江戸時代に医療があったなら、腹を切ってから心臓をくりぬかせて主君に献上しただろうと、何故思わない?
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