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暇なので仕方ないと思うんだ。
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適切という表現がある。
僕が何ものかを適切であると思うとき、それはつまり僕の意に適う。

他人にとって何ものかが適切であるとき、それは何者かの意に適っている、ということを、僕はあらゆるものから読み取る。
つまりそれは「適切であるはずである」のであって「適切である」ことはない。


僕が全く唯一なる存在であることに、他人という考え方の真実性に、人間という傲然たる括りの誘惑から脱するまで、今ここに至るに僕はなんと長い時間を要したことか。



僕が知らないことがある、と仮定してみよう。

知るとは何か。
僕はそれを、ある概念を存在させる意思、させざるを得ない弱味を持つことと解釈する。

僕の知らないこととは何か。
それは僕が存在させることが出来ないもの、まだ名をあてがわれていない概念である。

存在させるとは何か。
任意に注目可能な状態を維持することである。


このとき、知らないとは概念を「知らない」のであり、区分が無いのであり、混然としているのであり、目前にしながら目にしないのであり、知らないことは知ることが出来ないのである。
よって、僕にとって知らないことを探索することは無意味である。何故ならその冒険譚は何も語らないからであるが、というのは、知らないことは知ることが出来ないのみならず、思うさま概念を作ることによって「先まで知らなかったこと」を無限に生み出せる以上は、そのような探索には説明以上の用途は与えられ得ないのであるから。

だがここで、知ること自体の価値を論ずる前に、気づかねばならないことがある。上述の意味において、僕は全く全知全能の名に相応しいということだ。

僕が今知らないことは、まだ存在しないものである。僕が存在させるものだけが存在する――存在しないもののみを知らないならば、存在するものを全て知っていると憚り無く信ずることが出来るのではないか?

僕が全てを知っているならば、僕は他人の全てを知っている。
つまり僕は、どのように謙遜してみたところが、他人に未知を見出すこと、他人に意志の存在を信ずることなど、どうしても出来ようがないのではないか?

全てを知っていながら、自らがまだ知らぬものを知の外部に設定し、それを知る存在とその座を語ること、つまりある信仰をもつこと/知に反して何事かを信じることは、甚だしい自己欺瞞ではないのか?

変化変異を求めるのは、意味があることなのか?

他者は常に僕の意に適う、「適切な者」にしかなり得ないのではないか――他人とはどこにいるか?



やや言葉遊びが過ぎました。
以下は酒を飲みつつ書くので何を書くかよく分からないことを前口上。

僕はどんどん、自分が器用になっていることを感じています。
自分の感情的な起伏を捌くようになっている。全てを予定調和に数える――あるだろう未来を思い描き、それをあたかも自分が選び取った最善の結果であるかのように思い続けることで、結果によらず後悔しない気質を造りだしてきたのです。

僕はきっと、学問的にも成功しないし、あまり健康的な社会生活を送ることもない。
それを変えるのではなく、愛するでもなく、ただ自分の選択の結果なのだと、自分は分かっていて選び取ったのだと思っているのです。世界が自分の思うさま運行すること、この天文学的な喜びに比することが出来る満足はあり得ないのではないでしょうか。

僕がやはり万能であること、その証左が欲しい。
いや、欲しいというより、無くてはならないのです。自分以外に託すべき相手、神の座を持っていないから。

もっと前には、僕は悩んでいました。思うさま、自分にとって最高の運行を導き出せないこと、それが現れないことというよりか、自分にその能力の欠けていることを。
例えばそう、僕は、一番前に好いた人のことを忘れたことはないし、大概の場合そうだけれども、最近になるほどよく忘れ、あの人のことは忘れることなく、躊躇無く言えるほど今も好きだけれど、その次には労力によってこれを忘れ、今はもう事前に忘れている、そのような記憶の原理に逆行するかのような有様です。

だから僕はあまり感情というものを考えたいと思わない。自分で調整できるものだと思っているから。
感情など、根拠無き僕の世界を他人に説明するための、単に都合がいい生存上の行動概念に過ぎないのではないかとすら感じるのです。君たちはひょっとして感情の衝動を信じるかもしれないけれど、僕はもう、そう素直に心というものを見出すことは出来ないのです、僕の肉体的な、及び「精神」的な統御に屈するようなものに、どう信を置くべしというのでしょうか。

自分の中にこのような余所余所しいものがいるというのに、他人は確実に自分ではない、他人の中には自分という身近なものは決してないなどと、そのように暢気な、健気なことを考えられるものではありません。
他人なんか結局、言い訳なんだとすら思います。僕たちには知らないことなどない、それを肯定する労力を省くことで思い悩み、「全て」に属する世界を思い描いては無知なる自己を嫌悪し、思考を停止する口実を得ているのではないでしょうか。それとも僕たちは、自分たちには知らないことがあると確信するほど、生まれながらに賢いものなのでしょうか。そのように自己を明確に知って生まれるのならば、それは何も知らないのと同じだと思うのです。前提は結局親譲りの悪癖に過ぎないのですから。

文学、とりわけ詩歌が意味ある形態として成り立つのは、言葉を尽くして説明する、即ち自己満足を得るのではなく、他者の関わりを希求しつつもルールを先に立てる、言語表現としての限度を超えて介在しようとする他者が現れること、つまりは――これはまだ、あまり言いたくないことなのだけれど――共有という方法によって自己の世界を補強してくれる他者の存在を要求すること、共にあることを自ら求めること、この願望が根底にあるからではないかと思うのです。謎かけ、憤懣、憤り、苛立ち…なんと激しく不可解で理不尽な、人間的なやり方で、僕は他者が僕に関わることを望んでいることか!

結局のところ、「人間」は一人では生きてゆかれない。
僕は二重の目標を誓っているのです。誰であれ僕の人生の下敷きに巻き込むこと、そしてそれでも、ただ僕だけで僕の世界を、僕の認識を、僕の知を、成り立たせること。それは非人間的なあり方であり、神に宣戦する唯一の道ではないかと感じているのです。

かつてあるキリスト教徒は言った。存在しないことすら神の一要素だと。
ならば、僕は神を存在させないだけでは足りない。僕は神を存在させ、これをあらん限り偉大なものとして捉え、そしてそこにおいて、人間ならざる方法によって対決しなければならない――僕が神に委託してしまった権能を回収しなければならない。


梅酒を飲むと君たちもこういうことを考えるようになるよ。
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