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暇なので仕方ないと思うんだ。
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スープ作りながら考えてみる。いろいろと。
BGMは鬼束ちひろ。

http://www.nicovideo.jp/watch/sm2983769


先に一つだけ書いておいていい?
12000円取りに来いっていうなら、どっちかというと年金を一月分待って貰えればそれで同じことなんだけど、ていうかその方が楽なんだけど...

よし、世俗の話おわり。


難病の女子高生救え 心臓移植手術費の募金呼びかけ
http://sankei.jp.msn.com/life/body/081107/bdy0811072121004-n1.htm

死が何かを分かつという感じ方はあまり好きではなくて、といって死んでもどこかにいますという論説も気に食わない。生きてるから死ぬとか、死と生の関係如何であるとか、そういう猪口才な言説をやってみたところが空しいばかり。
立ち返って考えてみれば、問いは常に死とは如何というものであって、別解としての生は概ね死を超え出でて行くものとして与えられているように思う。死とは生の終着点であるけれども、人間という存在の核心、これを人間性とでも呼んでおけば、人間性は死を超えるものとしてみる、そういう事が多いのではないかな。

こういう話は構造主義に任せるけれど。
ちょっと続ける。

それで、考えてみるわけだ。死とは何であるかと。
ところがよく分からない。脳死の話は周知の一例であって、あのような御伽噺を僕は好まない。

つまり、生と死を分かつことのできない者は、生を分かつことを企図する。
生が分割されるときには色々なことが起こる。物理的な生と観念的な生が生まれ、形而上と形而下が作られ、あるものが死すべきものの世界を統べ、残りは、生の根源であり根拠であるところのもの、死ぬことが出来ないものとなる。人間性はこちらの陣営に属する。価値観もまた隠微な形で生死にかかわりを持つ。人間が時を駆けて生きていること、人間性があるという解釈――人間はやもすると、真理の尖兵なのかも知れないね。

根拠のないものを誤謬と呼ぶなら、人間性もまた誤謬ということになる。
ここまでが直感。

ちょっと立ち止まって考えてみると、僕らは常に二人目であって。
そういうことが、最近気になる。これは予感。


どちらにしても、何処まで行っても僕の考え方は独裁思考なのであった。
独善というのが実態なのかもしれないけれど。好きに呼べばいいんだ、そんなもん。

死の話を続けよう。
死について考え続ければ、僕らは必ず穴に落ちる。生と死の境が捉え難いという事実は、実に不思議な発想を持ち出して人を惑わしている。

生と死は甚だしく隔たっている、それも人知の及ばぬ不可思議に包まれている。
こういう発想が非常に強い。両者の関係性が不明であればあるほど、生と死と、それらは定義され得ぬ謎ではあるけれど、確定的に分離したものであるという考え方が、罷り通るのである。

これは過ち。
では、分離しないということは一体のものなのであろうか。

分離するということは、2つ別々のものがあって、その境が存在するということだ。有機体の再生産に分離もへったくれもないという観点に立てば、生と死は分離しない。
一体だということは、ある複数の仮定的な領域間に差異を認めないということだ。死者と祝杯を酌み交わすことは出来ないという観点に立てば、生と死は一体ではない。

つまり、生死には差異が存在するが境は存在せず、この論理記号は無意味ということになる。
端的な論理破綻が示す可能性は唯2つ、博識と盲目だけ。

ここで僕は盲目の可能性をとる。つまり、僕らはまだ何も死について知らないのである。
人に与えられた死を見ているに過ぎないのだろうと。そういう直感。

そもそも立ち返って見れば、第一の人間は決して死を恐れはしない。
しかし、それは誰であるのかというのが予感。


実に不透明な話だ。しかも自分で読み返してみたが、日本語にしては意味不明すぎる。
ま、行動原理には違いがないのだから論理化の必要は感じないといえばそれまでだが。
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