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暇なので仕方ないと思うんだ。
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眠れもせず、ネットにも上手く繋がらず。
速く光回線の工事始まらないかなー(´・ω・`)


芸術って不思議なもので、考えれば考えるほど蒸発してしまうのね。

「やっぱり感じるものがある」
「何か違う」

等と一つ覚えに喚くことは容易なのであって、万人がそう言うならば何としても疑ってかかりたいところなのである。

こういうことを書くと「感性がなってない」だの「芸術は考えてどうにかなるものではない、小手先思想家は黙れ」というようなレスポンスは僕の期待通り諸氏の脳内で再生されることでありましょうけれども、アカデミック(笑)の難しいところはここで、ある説を否定するのも信奉するのも「自明」ただ一言で済ますことは常に容易だということを、僕はやはり意識せずにはおれない。
そういう馬鹿な技法はねえ、西洋の方々がやって下さるのだから僕としてはちょっとね。

要は、有るも無いも概念次第。
問題はそういう概念がどういう形で保存されて、どういう形式に拠って存在して、どうして現状のように「芸術」なるものが存在することになってしまったのかと、このように微細な理屈をこね、より大きい局面での援兵に仕立て上げること、これである。

何かがそこに有るのは、僕がそれを存在させるからに過ぎない。
これを他人と共有できるなどとは、今のところは決定できないのである。


大体だね、芸術というものが有るならばキュビズムなんて存在しえないでしょうよ。波紋を呼ぶ芸術なんて定義に反する。
結局は便器ひっくり返したおっさんが言ってたことに帰結するのかもしれないが、つまりは複雑な体系に過ぎない可能性がある。

ギリシャ人なんか当てにしている時点でヨーロッパ(笑)は信頼出来ない。
前例を持たない訳でもないのに、世界を1つしか知らない未開人の知識がどう役立つというか。馬鹿め。

自惚れ。
世界に確固たる存在を「存在させる」ことが可能であるという願い。

欲求の意味を知らない芸術は空しい。
宗教の広場を出て、僕らは何を根拠に存在を存在させるかをまだ知らない。

自らの意思だけを礎に仁王立つような人間を渇望しているのである。
僕の考える超人。人の思考形態を持っていながら人ではないもの。


自分が描き出す世界を無条件に押し支える熱情の持ち主。
そういう人がいるならば芸術は有り得る。かつては盲信が根源だった、これに共感する人は盲である。

ただ、僕は驚くのみ、盲信者の深い愛に打たれるばかり。
この夢遊にただ一人で立ち向かってこそ宗教外の芸術は成り立つのではないかと思う。

世界をベースキャンプにする根底は崩れた。
今、他人に期待するものは何人も芸術とは関われないのである。


かつては神が彼を理解した。
今、私は私を理解しなければ。

全知全能。
自らを全知全能と認める強さが必要。


僕は近頃、他人とのかかわりを「理解しあえるのか」とか「共有できるのか」とか「独善に過ぎないのか」とか、そういう文脈で考えるのは飽きてきました。
何故自分のことを考えつくす前に他人を想定していくのか、一般に「世界は俺が認識したものがすべてなんだぜ」という主張も有りはしますが、ここでのテーマは「誰が正義か」であって、「私にとって私は正義か」とでも言うべき僕のテーマとはややずれる。

ま、根拠なく根本的に違うと言い放つ前世紀的悪癖は回避しておきたいところですが。

先触れとして考えてみれば、社会の中には絶対正義がウヨウヨしていることになるので、前提としてより社会論理として僕の考え方を弄って行きたい気分もありはするのです。
でもその前に存在/概念の基本的な外枠を考えていくわけなのだが。


察しの通り僕の議論の中には相当古い部門が多くて、参考文献を読めとお思いになるでしょうが、それはお断りする。
アカデミック(笑)が正しいと誰が決めた、大学主義者よ。
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