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暇なので仕方ないと思うんだ。
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家で眠りながら書いたらなんか長くなる。
まあ暇じゃない人はブラウザをしまってペン回しでもすればいい。

早くパンの販売が規制されますように。
以下そんなコピペ。



人間は思考するから偉大なのである。
その中でも「自分」が最も尊い。その証明こそ哲学。


さっき思いついたんだがね。
たぶん哲学の根本なんてこの程度の命題だと思います。ていうかそうです。

僕がずっと気になっていたのは、何故哲学というものは祖先と共存できないのかということで。
自然科学のように何かに積み重なって思索するということが基本的にないよね。方法論は受け継ぐけれど結論は挿げ替えるというか... ニーチェにしてもそうなんですけど。

結論と論理を検討するのが哲学研究で、結論を生産するのが哲学者、それ以外は市井といったところであろうか。

ともかく、前任者の結論を奉じているうちは研究者としか呼ばれない。何か突飛なこと、思いつかないような論理的跳躍、「だがしかし」の曲解、0=1-1の因数分解的な洞察...
何故そういうものが「哲学者」の要件であるように感じられるのかというと、結局僕等の考える哲学って、「うわあいつすげえ」の次元を抜けていないと思うんですよ、ずっと。

今まであった権威を粉砕する先生、格好良い。そういうものでしかない。
自分の属している時代、まぁ時空という言葉を脳裏に思い浮かべるならば空間と言っても良いかもしれない、それが何かに優越しているということ、この場合は過去への決別、輝かしい勝利、そういう意味でしか思索の歴史を辿れない人間が満載だということなのではないかな。

だから20世紀は哲学者が出なかったんだよ。みんながあまりに論理というものに馴染みすぎて、ヘーゲルあたりから何がなんだか分からなくなってる。

ここ何百年か哲学者だと言われている人たちを眺めると、やはり素直に哲学者だとは思えないようで、言語学者だとか社会学者だとか政治家だとか、ニーチェに至ってはエッセイストとの兼業扱いで、純然たる哲学者、そういう風に我々に思われる人種というのはいつの間にやら全滅してしまったようなのである。
ある人はそういうものが正しい分類だと言うかもしれない。それなら我々は徳川家康(政治家・武将・貴族)などと書くかどうか、そういうことを考えてみればよい。時代背景に合わせて「尾張の松平氏」とか「初代将軍家康」とか書くであろうけれども、何を間違っても殿上人とは書かないだろうに。

事実であるということが、検討において逃げ道となっているのではなかろうか。
支持率98%が不支持2%を包み隠してしまうのと同じように、とかく我々は事実に弱い。そうしてある事実を見ることで、他の事実を見ないこと、欺瞞自体を神聖な儀式の贄にしてしまう。

我々は果たして、人間の脳というものは、2つの事実を両立して処理することが出来ないほど粗末な構造物なのであろうか。
少なくとも僕はそう思っていない。


その話はまた次の機会に膨らませるとして、本題は哲学者の他人を踏み台にする態度。

これは科学的な引用と同列に扱われているけれども、決してそうではない。
別に新たな概念を持ち込むまでもないことで、自然科学の論における引用は結果の引用だけれども、哲学における引用は過程の引用、それも常に否定のための引用なのである。その理由は明らかで、自然科学の発展は結果の連鎖であり、哲学の実りは他者の「誤謬」からしか得られないということなのだ。

結論自体を何かに利用するということは、自己宣揚という哲学の根本に馴染まない。
それは研究に属するのである。所謂「カント紹介」というような類のものがそれであろう。

やはりこう考えればすっきりする。
哲学とは言葉を尽くせば「自らの生の自律的な肯定作業」だが、明け透けに言えば罵倒である、と。


ここまで考えてみるとtkdの自分自慢が始まる。
つまり哲学の始まりにおいて他者を拠り所にする限り、結論は違えても結果は同じなのだから、どうあっても自分というものを世界の中心から引き剥がすこと、自分を包み込む世界などという妄執は捨てて自分を讃える作業こそ、この先何百年かの哲学者が模索していくべき唯一の道であろうと思われるわけで、さっそく俺すげえ。

哲学研究家が哲学家になる必然が存在しないということである。知恵は時として足枷になる。
自分ではなく他人を打ち倒すことが出来るようになるからね。自己否定が恐ろしいから、代わりに先祖を否定して「前進」するのだろうと思う。

哲学研究ののちに何度も自己変革を経験して哲学を始めるのもいいかもしれないが、大概の人間は100年持たずして時計を離れてしまうからな。


それに、やはり今の認識を動かして現実を考えるのは難儀だ。
前に「不死の者に人間の考える時間など通用しない、ただ周囲の老いと魂の連鎖がそれである」というようなことを言われて、こいつ天才だろと思ったことがあったんですが、あれは今考えるとニーチェファンだったのかも知れませんね。いやまあゲームの科白なんだけどさ。

その話で語られていたのは、「時間は過ぎ去りはしない、ただ積み重なるもの。太陽とともに一日が訪れ去っていくということはなく、ずっと同じことがあるだけなのに、人間は不思議な考え方をするものだ」というようなことでしたね。
...今になって落ち着いて考えてみると、シナリオライターは絶対普通のやつじゃねえ(笑)


ともかく、僕は僕で自分を支えていこうと思うわけです。
哲学者みたいな負けず嫌いに、論理という概念を与えたのがそもそもの間違いだったんだよ。

それは法律家であって哲学家じゃない。
空疎な世界に必死に論理を当てはめるのは確かに哲学だけれど、世の哲学者はそのツールを使って戦争を始めるからなっとらん。庭を整え悦に入るための剪定ばさみで大切な隣人の首級を上げ、庭道具で先祖の墓を暴く馬鹿があるか、ということさ。


他人に批判されて結構。
庭はそれでも残る... 不気味な程、長い間。

そしてむしろ予期せぬ姿に育っていく。
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