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暇なので仕方ないと思うんだ。
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ならばアルコール補給だ。


カントはもう止めます。
彼の限度は良く分かった。

我々がアプリオリな道具で表象に規則性を見出すのならば、当然この自然が規則性を持っているからであろうということを、どうも思いつかなかった雰囲気である。
法則は経験の累積に基づく推論に過ぎないのであって真理ではないこと、従ってアプリオリなものごとには必然性が無いということを僕は思ったので、ここでカント探求を止める。全部読んでないから知らんけど。

つまりはこの童貞は馬鹿だと見限ったのである。
ここでだ。

馬鹿とは何であるか。
こういう話は案外底が見えないものであるので、論証的な考えはしないで、酔っ払いの論理で行く。

以下の話で意味が良く分からなかった場合、「僕」を「自分」に読み替えてみてください。
先走った注意書きなので適切かどうかは知らない。


馬鹿を決めるのは何処までも僕、唯一人、僕である。
僕の注視していないところに一人の馬鹿もいない代わりに、僕の周りにいるのは大半が馬鹿である。

表象の向こう、根源であるもの自身のことは知りえないとカントは書いた。
僕の思うところでは、この説明は正しいけれども、それは局所的な話であって些細である。

自分の力で世界を支え持つこと。
そうしたら世界は時間的な普遍に陥るのかも...

馬鹿について言えることは少ない。
ただ、それらは確固として存在していながら、完全に共有できる類のものではないということだ。馬鹿を捉える感覚器官もないからな。

ふむ。これ以上進むと僕の存在論になる。
これはまだ15年くらい秘密にすべきである。秘密という名の、公然の、秘密なのだ。

馬鹿を存在させることは常に押し付けであるということは、今書いても差し支えないだろう。
そして多分それは正当なことだ。僕以外の誰のために、この世界があるというか、支柱である僕以外の誰のために。

究極的には誰かに何かを働きかけることは、万力で強制することであって、常に馬鹿という命名の暴力だ。
意見は侮辱なのである。

というように、僕は気分で言ったことを論理的に回収していくのが趣味なのです。
かくのごとき例を累々とすれば、あたかも僕の言うことは全て回収の見込みの下に発せられたように思われるのであって、つまりは、誰かの考えに強引に働きかけて推論を摩り替えるが如きは、僕のように意地の張った人間には然程困難でもなく、むしろそれを困難視する態度が受容の可能性を高めてくれるのであるから、誰かの行動を捻じ曲げていくこと、これは大変な娯楽である。


今日も冬の気魄は迫る。

漠然が僕たちを神の座まで招待してくれよう。
馬鹿には見えない服を引き受けるのさ、第一級の馬鹿であるところの、この僕が。
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