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暇なので仕方ないと思うんだ。
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眠い。
何故経済学が国民の教養ではないのか...


もう眠くて眠くて長いものは書けないし貼れない。
だから感想だけ...

というわけで今月の作文。
正直まだなーんにも書いてない感じですな、うん。


一人称、とりわけ「一人称の死」という言い方は前から嫌いだったんだが、これがなんで嫌かと考えてみるに、手の込んだ一人芝居だから。
人称の考え方は自分ひとりの世界にはないものだ。要はどこかの誰かを観察して得られたもの。

自分とその他の壁を容易く越えてくださるわけだが、僕としてはそれが気に入らない。
どうして気に入らないのかは知らない、ただ気に入らない。

んー、お人形ごっこだということかな。
変な話だが、人称で語られる死そのものは「三人称の死」に丸ごと当てはまるんだよね、たぶん。

実際に死ぬか死にかけるか、そういう時にしか議論が自分にとって「一人称の死」を扱いうるツールにならない。
でもそれは他の誰にとっても、「論じられる一人称」という「三人称」なのだから、これはもう言葉を分けたほうが容易い。

つまり議論されているのは「一人称」ではあるけれども、僕がそこで考えたいもの、それは僕自身にとっては決して人称の問題なんかじゃない、「僕の死」に他ならないと思うんだな。僕は。
でも、そんなしょうもない「三人称」における議論で、「自分」の死生観を養ったなどと思う人間がいるでしょう、わらわらと。

これはつまるところネズミの死体を見て死生観を養いうるかというような問いかけと同じ話であって、擬似的にはいくらでも可能なんだろうけれど、もしそれで本当に自分が死ぬことを深く考えぬいたんだと思う人がいるなら僕は言いたい。

いっぺん死んでみせろと。


...死なんて結局どこにもないと、僕はそう思って色々議論を組み立てたいとも思うけれど、なかなかねー。
「今」をずーっと幅広く捉えてみて、そしたら面白いこと考えられるかもね。
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