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暇なので仕方ないと思うんだ。
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タイトルはもうちょっとひねってもいいのかも知れないが、企画の行方が定まっていないので当面は美術館名で管理することにする。
という前置きを経て。

上野の森美術館『レオナール・フジタ展』(11/15/08-01/18/09)
東京都台東区上野恩賜公園内


行って参りましたよ。企画第一号。
そのきかくなあに( ^ω^)という君たちの顔が目に浮かぶので説明しよう!

tkdは沖縄旅行のために積み上げた10万円のソニー銀行預金を資産として、手近なところから可能な限り全ての美術館を訪問することを決意したのである!
首里城? 適当に焼き払って置けば良いよまじで

ちなみに東京都美術館で謎の書展を眺めてからに非常に落胆した後だったわけなので、感慨深かったです。
以下、全て感想。

1.スタイルの確立
2.群像表現への挑戦
3.ラ・メゾン=アトリエ・フジタ
4.シャペル=フジタ

以上のような表題の下に構成されておりまして、世人曰く「素晴らしき乳白色の地」の確立と名声、そして晩年の宗教芸術への傾倒をメインとしていることは明らかであります。

20世紀生まれとして、ここで絵画をテキスト扱いする業を引き受けようと思う。
僕が気を引かれたのは、フジタの描く人々の眉と視線である。

人々、と一括りにいったけれども、彼の絵には基本的に2種類の存在が出てくるように感じる。
それは「誰かにとって理解済みの存在」と「教え諭す存在」の2つである。

簡単に、先回りして述べておけば、子供及び群像たちは前者だ。

この展示会としてはやや軽い扱いを受けていたが、彼の描く子供の絵柄には非常に強いモノを感じた。
追々書き記すことであるが、生気が全く感じられない、実に楽しげな子供たちなのである。こちらをまっすぐ見つめ、しっかりと視線を絡ませてくる。

実に奇妙、何故となれば彼ら、というよりは彼女らといったほうがよかろうか、全く感情を表現する機能を失しているのである。
眉毛がないのだ。更に顔の部品の配置がやや歪んでおり、おかしい。可笑しいのではなく、おかしいのである。

戦慄すべきだとすら言えよう。


600号の大作群「争闘」においては、秩序無く男女が取っ組み合いをしている。
これに「戦争と平和、天国と地獄」という解題を付けたのは中々考えたものだと思うけれども、実際そんなに明確な秩序があるとは思われなかった。というのは他の作品などに、極めて油断ならないところがあり、眺めている我々を見透かしているような描き方があったのである。例えば風景画であっても、何故か街道の果ての木々には仔細な表現が用いられ、距離の近いはずの斜面等は、言ってみれば適当に描かれている。人が景色を見るときの癖を知ってのことといってよかろう。ちなみに僕はそれがフジタの個人的な技法か西洋の普遍的な技法かは知らない。

さておき、大作を眺めた僕の感想は総じて「やっちまったなあ」というものであった。
その理由もまた後に続く。

子供たちに感情表現がないのは、「これら子供には特定のモデルは無く、私の愛する架空の子供たちである」といった趣旨の作者の言から考えてみてもやはり、感情をわざわざ表現する必要がないからだと見てよいであろう。
つまり子供は全て作者の妄想の結実であり、完全に作者に理解されている存在であればこそ何も語りはしない、それでもそのままで楽しげなのである。

ここで絵画はフジタの心が見つめる世界の模写になっている。
もしくはその世界自体である。そして僕の位置に立っているはずのフジタの目を見ているのだ。フジタの目とは逆に。


そして、群像たちに感情などないのは情景から明らかである。
彼らが感情を持つとすれば、より狭く言えば「感情を表明しあう」とすれば、群像劇は自己完結した小説になってしまう。彼らはあくまで取っ組み合いの主人公なのであって、それ以上ではない。

この大作の中で僕を見ているのは、折に入れられたライオンと幾人かの佇む者たち、乱痴気に取り残され茫然自失の裸婦だけである。
彼らの心は自分と向き合い、故にこちらを向いている。

そこに秩序はないのだ。
戦争だろうが平和だろうが、感情を表すのは取り残された者たちである。怒髪天を衝く、それは昂ぶりであり動きではあるけれども、表現ではあるまい。各無名者の対立の中での、対立に由来する、そして対立ゆえに不可避な自己喪失という点で、この群像劇は際立った異常性と統一感、そして見逃すことのあり得ない不快感と駄作感を漂わせているのである。これが数十年来、倉庫の隅に丸めて放られていた事実も、これをインパクト一辺倒のデカブツと評する声のあることも、僕にとっては全く当然のことと思われる。

ちなみに彼らには表情があるが眉は薄い。

そして問題はいよいよ彼らの視線へと絞られていく。

横たわるヴィーナス。
その足元では、目を閉じ不可思議の世界にある女神に取って代わるかのごとく、動物たちがこちらを見ている。見つめているのだ。

どうやら猫はフジタの偏愛を勝ち取った仲立ちであるらしい。
猫は常に人間とともにあるイメージで語られている。神が僕に見向きしなくとも、裸婦が孤高であろうとも、そこには動物たちがある。


ところが、この展覧会が注目していたように、この点に大変な変化が訪れる。
宗教的な表現の拡大である。


佇む美女の傑作「イヴ」こそ、この傾向の好例である。

イヴはその名の刻まれた林檎を手に持ちつつも、視線を僕からそらしている。
その背後には幾多の動物たちが控えているが、一様にこちらを見ている。その向こうに広がるのは豊かだが限りある自然描写である

これは明らかにアダムを見つめていると考えて良いだろう。動物と遠近法的な背景は、人間と分離してしまった世界を指し示している。動物たちはイヴには目もくれずこちらを見ている。
僕の立ち位置にいるのは、僕でもなければフジタでもない。神である。

それが証拠に動物たちは、みなこちらを見つめているにもかかわらず僕とは視線を交錯させない。これは大変な技量だ。
僕はこの絵の前に立つことで、イヴが目を逸らす、というよりか逸らさざるを得ない存在を確かに感じつつも、それを絵画の中に見出すことは出来ない。動物たちの視線はその在所を告げるものである、そう、真後ろだ。ちょうど鑑賞者の真後ろの何かを、動物たちは一心不乱に見つめ続けているのである。

ただ人間だけが世界から、神のもたらした調和から外れていったことをこの絵は示しているのである。
そう、視線だけによって。


フジタの宗教芸術は聖堂建設という形で究極を迎える。
後世に伝え残すという宗教の根本的な働きに、彼は遂に合一したのである。

ちなみに聖母とキリスト、天使たちは眉をしっかりと持っている。
人間には彼らを理解出来ないということなのだろう。人間に不可知だからこそ、「正しい」人間の姿をとっているのだ。

子供や群像にはその必要性がなかったこと、既知であったことは言うまでもない。
群像劇の乱闘を、人は奇妙に思いこそすれ芸術として(そして内容として)謎とはなさない。敢えて言えば「人間なんてそんなもん」なのだ。


展覧会としては満腹もので、久々に芸やら術やらに触れた身としては実に引き締まった喜びの感覚を持ったが、敢えて運営者に苦言を呈せばポストカードが選出基準、内容ともあまりに御粗末である。
子供たちがフランス文化そのものとともにスナップショットのように収まる、オマージュの塊のような遊び心のパッチワーク『フランスの富』の一部なり全部なりをポストカードにしなかったことは、永遠の謎である。

僕はちなみに「イヴ」のポストカードと、唯一子供が微笑むもの一枚の計2枚を購入。
楽しかったです。本当に。
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