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暇なので仕方ないと思うんだ。
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http://www.nicovideo.jp/watch/sm6052153

なんですかねえ、僕が学問の世界になんか残りたくない理由っていうと色々あるんですけど。

相手に反論を許すのが学問的議論... と言えば聞こえはいいけれど、要するにそれって自分の発言が反論からしか成り立っていないことを証明しているだけじゃないの。
反論の中身が有意義だろうと独創的だろうと、そういう議論の仕方は(別に学問として学問がそこにある分にはいいのだが)普通に人間がモノを感じる時に使うべき方法ではないと思うね(´~`)

そして、学問は頻繁に「人間」の界隈に出入りするじゃない。要するに哲学だってことね。
結局そこのところの割り切りが出来ないから、学問だとか研究だとか、無理なんだよね。

そういう学問的方法しか語り出さないようなところでは、僕はあんまり長生きしたくありませんし。
なんだかんだ言って「学問」の共有性が際限なく強いものだから、誰もいないところに神様がやってきた時のように、それ以外の有様で世界を存在させる能力が急速にスポイルされているのではないかと、そう思います。

学問が滅ぼしたものを学問が語る、そんな欺瞞は期待していないし。
ムーサイを率いる者は陶酔する訳にもいかないのだ。


http://www.nicovideo.jp/watch/sm7812706
そういえば忘れてたけどね、これね。
たくさん売れるといいね!


他人に独我論を当てはめようとするのが僕の哲学的性向だと、ついこのあいだ、言語化に成功。
それはつまり、僕と話すこの人間は結局、彼自身の世界を生きているのであって、僕はそれを多くの場合言語の強制力によって捻じ曲げていかなければ僕の世界を『共有』することは出来ない、というような感じ方なのかなと思います。

こういうことに僕はこれまで「支配」という言葉を当ててきたし、たぶんこれからもそう。
そして、他人の独我論である僕の思考法はいつまでも、僕自身の独我性は ―
上手くいえないけれど、つまり僕の認識が僕の認識世界そのものを規定するとか、唯一無二の根拠だとか、決定付けるというようなことは ―
あんまり意識していないんだよね。

それってつまり、僕の認識する世界は主観的・客観的・即物的等々なんでもいいけれど十全に「存在」の用件を満たしているんだけれど、他人の世界はそこのところを「正しく認識」しているとは限らない、そういう感じ。


差し当たりこの考え方を人間全般に当てはめておきまーす。
それで戦争・戦死の話を書きまーす。

ねまーす。
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