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暇なので仕方ないと思うんだ。
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言いたいことがあるんだが。
後のほうでね。

ちょっと前に思ったんだけど、たとえばそういう「ヒミツ」を言い尽くしちゃった人って、「ヒミツ」のある人より人間関係が困難になるんじゃないかなーって。
つまり、それを教えてあげるということはそういう関係なんだろう、という関係形成のために補助的なツールを喪失しているわけだからね。

同じことで、僕はこないだ「なんで好きだと付き合うの?」っていう話をされて。
そんなことお前らが中学生くらいのときに考えておけよと思ったことは否定できない。

多分、自分の感情を確認するために付き合うんじゃないかな。
確認って言うのはつまり、その感情は偽りなくそこにあるっていうことを相手に強制しちゃう、そのための方法論として「付き合う」っていうモノがあるんだと思うのね。

つまり自分の感情を自分で確信するために相手を巻き込んでしまおうということですね。

理想論としては相互的になってるんだろうけれど、まあ現実を考えますと最低限どちらか一方に強固な要求があればいいんだろう。
「自分の好意と相手の好意を比べれば自分が勝っている」と思ってる人が一人以上いないと、成り立たない関係だと思います。

んー、いわゆるお付き合い、交際は感情の証明であって、関係の要求ではないとか、そういう感じ?

自分の感情を強固に示す、というよりはむしろ、自分の感情は強固であると信じる、そっちの方が主目的なんだと思うのね、僕は。
人間が二人いるから関係性が問題になるだろうと考えられることが多いのだろうけれど、好きだ嫌いだの感情が一人の中で完結する場合だってたくさんあるしね。

そういうなんていうのかな、恋人は何か特別な論理に基づいてるから普通の好悪とは違うんだっていわれても、納得しませんもの、僕たち。
「なんで好きだと付き合うの?」は僕と僕の直接の知人間での問いかけではなくて、とある告白された側からの、好きなのは結構だけどなんで話がそうなるのという、結構罪作りな疑問。

ここでは話の前後関係をすべて省略するが、一言でいうとひどいやつだ(´~`)

ま、それはともかく疑問に対する僕の答えは「付き合うのは主観的で非論理的な選択だけれど、動機からして主観的で主体において完結する性質のものだから仕方がない」ということだな。

話がややこしいのは、単純に主体の感情を補強するための動作に過ぎない「付き合う」という行為に、繁殖と集団秩序の動作が連結されてることだよね。
つまり彼氏彼女とはセックスして結婚するものだよね! っていう。

でもそういう風に、男女の仲を特別視するやつはなにか単純ならざる性的コンプレックスでも抱えてるんじゃないのかと僕は他人事ながら心配になる。性向信仰を持つのは別に勝手なのだが、それが如何に同性愛者と不能者と禁欲者を破滅させるのかと小一時間ほど問い詰めたい。
結局は動物です、人間どもなんか。それに対して愛だ誓いだと騒ぎ立てるのは、ある点において確かに存在「していて欲しい」自分の感情を補強するために人間のDNAを使おうとする、極めて意志薄弱の輩のやり口だと僕は思います。

時と場所によっては、感情と性的関係と社会秩序としての静的家族観はさほど強固に結びついていないこともある。
つまり一義的なものの言い換えではないんですよ。それなのに「愛情に基づいて」セックスするとか家族関係を形成するとか、そういう考え方を持ち出してきて、付き合ってるから、子供ができたから、夫婦だから、これこれの感情があってしかるべきだし当然いまここにもあるんだと、そんなことを言い放つやつはどこまでも人間的で嫌なので唾でもかけて耐震補強の人柱にしてしまいたい。


話を戻すと、誰かに自分の話をしたりしなかったり、この行為もまた同様に社会的に(そして主観的に)意義付けられた行為になっているからには、僕が君に個人的な秘密を明かすことは単なる情報の伝達ではありえず、そういう関係を一方的に樹立するため、よりこの主張の趣旨に沿って言い直せば、そういう関係にあるべき感情を僕が持っていると相互に確認したことにするため、僕は自分の感情を相手に寄りかかって形成するため、面白くもない話をして悦に入っていることになる。


僕は、こういうのは嫌なんでね。
自分の感情は自分で形成したいし、何より感情なんて自分でいくらでも捻じ曲げられるものだと経験的に知っていることだし...

意識的に嫌いになったり好きになったりなんて、簡単。
そしてそれを自分の発言で裏付けてしまうのは、もっと簡単。

どんなに唐突にでも、一度でも、「好きだよ」って言ったら誰も疑わないんだよ。
馬鹿ばっかりだと思うね。自分やら他人やらを観察してる僕はとっても楽しいから、別にいいけどさ。

という前置きをおいたら、もう僕の言葉を信じてくれないんだよ。
実にふざけた話だけれど、これが人間。


そんなことを考えるようになってから、好きだと言えても付き合おうと言えない人になりました。だって論理的飛躍を相手に押し付けるのが嫌だから。
好きです、顔見てるともうメンドクサイです、会いたくないです、fin.

自分の感情を確固たるものと信じられるように相手にも協力してもらう、この誘惑は確かに感じる。
それでも僕は自分の感情を自分で保っていたいんだなあ。

誠実さを無私という言葉で指し示すことがあるけれど、あれは自分がないんじゃない。
自分の中に本来あるべき「自分」がいないだけで、出来事はすべて自分の中なんだよね。

僕はやっぱり僕の中で生きていたい。
誰かを殴り倒すことはしても、踏みにじることは出来ない。


社会の共有カーネルが使えない人間としては当然そうなるのだろう。
ハードとソフトを結ぶ一揃えの処理ルールを共有することが出来ない...

両性愛者としてはね。
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