暇なので仕方ないと思うんだ。
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現代位相研究所 「大人ぶる」ことと「大人になる」こと
http://modernphase.blog95.fc2.com/blog-entry-78.html
社会学の好きな人たちがいい年こいて学問ごっこしてるブログ。
とてもいいことだと思います、が、内容の程度はアレですね。
一つ一つを真面目に指摘する――それはつまり上記の記事を皆様方に真面目に読んでいただく必要性を与える――ことがそもそも馬鹿らしいのがまず一点。
更にこの記事には以前にもケチをつけたことがあるような気がするのが第二点。
それでも、まあ気力の続く限りにおいてはケチをつけよう。
それもこれも学問のためである。
これは論文ではなくてブログ記事である。
だから体裁等は全くどうでもよいが、それにしても「以前の別ブログの記事を参照せよ」とは何事であろうか。
一体我々はどのブログのどの記事をどこからどこまでどのように参照すればいいのか。
こんな問題はハイパーリンクを添えれば解決する話である。この21世紀にブログ記事を書く人間が「ハイパーリンクとは思いつきませんでした」では済まされまい。
ともかく、こういうサボリはよくない。
テーマは「『大人になる』と『大人ぶる』」である。
こういう対立項設定は論破しようと思えばサルでも出来るのでそういうことは勿論しない。
ただしかの筆者の青春観があまりにも貧弱なのでこれを補っておきたい。
「『誰にも話せない悩みの種がある』と歌われているのであるが、普通に考えてみるならば、15歳の少年少女に悩みがある場合、まずは周囲の大人や友人に相談する」そうだが、そんなことはどう考えてもおかしい。何となればこの歌で描写されているのは、ただ一人この自分だけが前に進み損ねて置いていかれているのではないか、自分と他人は決定的に違うのではないかというような、(主観的に)窮極の孤独の場面であることが想起されるのである。
何故かというと主として自分の黒歴史が...
ではなくて、この歌詞をよく読めば分かることだが、後半は「過去の自分に語りかける」という形式をとりつつ目下の自分に、成長後の立場として自分を諭すような調子が認められるからだ。
二度現れる「今 負けそうで/負けないで」というフレーズは、三度目には何故か今を欠く「負けそうで 泣きそうで」のみで現れる。
これは若かりし自分に対する呼びかけの内容であったものが、「今」が指す過去の15歳時点に特定されない、より一般的な人生観に昇華――というか、僕の感じるところでは復帰――したからと解釈できる。
要は成長後の「自分」が未来時点で自分の考えを確認しているわけだ。そんなこと思ってたな、今もまあ、そう思って生きてみたいなと。
ということは当然に、このストーリーの前提として、呼びかけの内容と全く同じことを当時の自分が考えていたものと推察される。
で、まあ何が言いたいかというと、そんなこと考えてたってどうせ自分は変化するわけで、若い方の自分はそれを既に悟っているから迷うし、成長後の方は当然に経験としてそれを知っているのだけれども、それを「(今の)あなたが幸せな事を願います」で覆い隠す、そういう半ば欺瞞であり半ば期待であるもの、そういう感情が歌詞の背後にあると思うんですね。
これって所謂「諦観」ではなくて、むしろ希望とか成長ですよね。
人生そういうもんだよね、でもそれを自分は認められない、明らかだけど認めないで、それでも平気で生きていくんだっていう。
そもそも15歳からの手紙っていうように、出発時点はしっかり明示されてるのに、目標年齢はなくて「未来」っていう風に誤魔化されてるし。
これはもう完全にウソですよね。明日の自分はダメ、来月来年もダメ、何時になってもたぶんダメだけどその向こうにいる「未来」ならきっと...って、そんな馬鹿なトリックに気付かないほど青春の悩みは浅くないですよ、普通。
こういう、厳密には明らかな嘘でもって器用に生きていく人生。
それでもいいんだよね? っていうのがテーマだと思います。
だからまあ、かの筆者の感想というか、記事で言えば単に導入なんですけど、ここがまず決定的にまずい。
そういうことって、でも、もしかしてタテマエだから理解が難しくて、分からないまま突き進む「若い人」がいるかもしれない。
筆者のこういう懸念は分からんでもないけれど... いや、古来から人類はそういう葛藤を通じて誰も彼も「大人」になっている(ことになっている)。
「自分のことを誰にも話せない」が「現代の風潮」だとか、こいつのアタマはどうかしてるんじゃないか。
だいたい、自分の感情を表に出さないでおくというのは、明らかに他人に対する感情表現のバリエーションの一つであって、他人と感情的に衝突しているからこそ、外見には平穏無事に――その一方で主観的には激しく衝突し敵意を散らす――このような行為に及ぶわけであって。
親と子供が同じこと考えてるっていう社会的な流れがずっとあったなら歴史なんかいらねえよバカ。
http://modernphase.blog95.fc2.com/blog-entry-78.html
社会学の好きな人たちがいい年こいて学問ごっこしてるブログ。
とてもいいことだと思います、が、内容の程度はアレですね。
一つ一つを真面目に指摘する――それはつまり上記の記事を皆様方に真面目に読んでいただく必要性を与える――ことがそもそも馬鹿らしいのがまず一点。
更にこの記事には以前にもケチをつけたことがあるような気がするのが第二点。
それでも、まあ気力の続く限りにおいてはケチをつけよう。
それもこれも学問のためである。
これは論文ではなくてブログ記事である。
だから体裁等は全くどうでもよいが、それにしても「以前の別ブログの記事を参照せよ」とは何事であろうか。
一体我々はどのブログのどの記事をどこからどこまでどのように参照すればいいのか。
こんな問題はハイパーリンクを添えれば解決する話である。この21世紀にブログ記事を書く人間が「ハイパーリンクとは思いつきませんでした」では済まされまい。
ともかく、こういうサボリはよくない。
テーマは「『大人になる』と『大人ぶる』」である。
こういう対立項設定は論破しようと思えばサルでも出来るのでそういうことは勿論しない。
ただしかの筆者の青春観があまりにも貧弱なのでこれを補っておきたい。
「『誰にも話せない悩みの種がある』と歌われているのであるが、普通に考えてみるならば、15歳の少年少女に悩みがある場合、まずは周囲の大人や友人に相談する」そうだが、そんなことはどう考えてもおかしい。何となればこの歌で描写されているのは、ただ一人この自分だけが前に進み損ねて置いていかれているのではないか、自分と他人は決定的に違うのではないかというような、(主観的に)窮極の孤独の場面であることが想起されるのである。
何故かというと主として自分の黒歴史が...
ではなくて、この歌詞をよく読めば分かることだが、後半は「過去の自分に語りかける」という形式をとりつつ目下の自分に、成長後の立場として自分を諭すような調子が認められるからだ。
二度現れる「今 負けそうで/負けないで」というフレーズは、三度目には何故か今を欠く「負けそうで 泣きそうで」のみで現れる。
これは若かりし自分に対する呼びかけの内容であったものが、「今」が指す過去の15歳時点に特定されない、より一般的な人生観に昇華――というか、僕の感じるところでは復帰――したからと解釈できる。
要は成長後の「自分」が未来時点で自分の考えを確認しているわけだ。そんなこと思ってたな、今もまあ、そう思って生きてみたいなと。
ということは当然に、このストーリーの前提として、呼びかけの内容と全く同じことを当時の自分が考えていたものと推察される。
で、まあ何が言いたいかというと、そんなこと考えてたってどうせ自分は変化するわけで、若い方の自分はそれを既に悟っているから迷うし、成長後の方は当然に経験としてそれを知っているのだけれども、それを「(今の)あなたが幸せな事を願います」で覆い隠す、そういう半ば欺瞞であり半ば期待であるもの、そういう感情が歌詞の背後にあると思うんですね。
これって所謂「諦観」ではなくて、むしろ希望とか成長ですよね。
人生そういうもんだよね、でもそれを自分は認められない、明らかだけど認めないで、それでも平気で生きていくんだっていう。
そもそも15歳からの手紙っていうように、出発時点はしっかり明示されてるのに、目標年齢はなくて「未来」っていう風に誤魔化されてるし。
これはもう完全にウソですよね。明日の自分はダメ、来月来年もダメ、何時になってもたぶんダメだけどその向こうにいる「未来」ならきっと...って、そんな馬鹿なトリックに気付かないほど青春の悩みは浅くないですよ、普通。
こういう、厳密には明らかな嘘でもって器用に生きていく人生。
それでもいいんだよね? っていうのがテーマだと思います。
だからまあ、かの筆者の感想というか、記事で言えば単に導入なんですけど、ここがまず決定的にまずい。
そういうことって、でも、もしかしてタテマエだから理解が難しくて、分からないまま突き進む「若い人」がいるかもしれない。
筆者のこういう懸念は分からんでもないけれど... いや、古来から人類はそういう葛藤を通じて誰も彼も「大人」になっている(ことになっている)。
「自分のことを誰にも話せない」が「現代の風潮」だとか、こいつのアタマはどうかしてるんじゃないか。
だいたい、自分の感情を表に出さないでおくというのは、明らかに他人に対する感情表現のバリエーションの一つであって、他人と感情的に衝突しているからこそ、外見には平穏無事に――その一方で主観的には激しく衝突し敵意を散らす――このような行為に及ぶわけであって。
親と子供が同じこと考えてるっていう社会的な流れがずっとあったなら歴史なんかいらねえよバカ。
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