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小さい子どもを叩くしつけも必要? 米調査で「良い子に育つ割合が高い」
(ナリナリドットコム 2010/01/05 16:08)

英紙タイムズによると、グノエ教授は179人の10代を含む2.600人に質問を行い、特に10代の人には
「どのくらい叩かれた経験があるか」など、具体的な聞き取りも実施した。また、対象者には性格的傾向や
進学度合いに関する質問も行い、「叩かれたことによる、その後の行動に与えた影響」があるかを調べた。

その結果、全体の4分の1は「全く叩かれた経験がない」ことが判明。そして、全く叩かれたことがない人は、
叩かれた経験のある人に比べ「あらゆるポイントで、ほかのグループより悪い結果になった」そうだ。具体的
には「反社会的行動や早めの性交渉、暴力やうつ」など、何らかの精神的な問題を抱えやすい傾向が見られ
たという。 最も良い結果になったのは「2歳から6歳までに叩かれた人」で、次いで「7歳から11歳までに叩かれた
人」。ここでの違いは、7歳から11歳までの経験者の方が「よりケンカをしやすい」傾向があったものの、
叩かれた経験のない人よりは「進学では成功している」そうだ。
(前後略)

http://bit.ly/8jsOC5


んー。
なんでmixiはニュースサイトへのリンクを表示しないんでしょうねえ。別に剽窃とまでは言わないけど、それに類する気分になって困るんだけれど。

しかしこういう話題が出ると、一昔前ならフロイト信者が際限なしに湧き出てきたはずなんですけどねえ。
mixiでこのニュースに関連して書かれた日記を眺める限り、そういう様子はないなあ…


それにしても、めでたい連中だなあ。
「怒る」と「叱る」が「違う」と言われれば、すぐそれを信じる。
「必要」と「不必要」が「ある」と言われれば、やはり信じる。


まったくもって同じじゃん、バカじゃねーの。
そもそも僕の生育環境には、「ごしゃぐ」が大音量で威圧する、「くらすける」が腕力で威圧するっていう区分しかないし。

確かに、日本語で考えりゃあ「ごしゃぐ」(ただし僕の言語感覚では「ごしゃく」である)は怒る・叱るだし、「くらすける」は(子供を)殴るっていう意味ではありますけど。
「くらすける」… というのは、どうも福島あたりでは単純に「殴る」こと一般のようですけれど、幸いなるかな、僕の身近な環境においては、殴るのは年長者で殴られるのはかなり幼い子供と決まりきっていたので、僕の中では「くらすける」=「子供を懲罰的に叱る」という意味になっております。

だから正直ね、「くらすけっぞ!」(殴るぞ)とか言われても、さっぱり身の危険を感じなかったんだわ。もう幼児じゃねーし、と。
これは僕がたまたまラッキーだったのかもしれませんし、方言一般の話ではありませんが。

例えばさあ、祖父が「うー、くらすけらんなねなあ、ハハハ」(うーん、殴らなければならないなあ、ハハハ)とか言ってるのって、別に僕にしてみたら普通の会話というか、むしろ微笑ましいわけで…
なんていうのかな、「こやつめ、ハハハ」くらいのニュアンスだったんですよね。


ただひたすらに「こやつめハハハ」し続ける曹操
http://bit.ly/o2pgN


で、まあそれはそれとして。
ともかく、言葉のニュアンスなんて変わると思うんですよ。だって僕はむしろ、「ごしゃぐ」っていう方が怖いですもん、我が家では「ごしゃがれる」っていうのは決してポジティブな意味合いでは使いませんでしたから。
つまり「ごしゃぐ」時には殴るかもしれない、そう感じる。


それじゃあ、大音量・腕力で威圧する~という先ほどの定義とかみ合わないと言われそうだけど。
いや、僕にとっては違うんですよ、つまりね。

「ごしゃぐ」っていうのは、その人は怒ってるわけですよ。だから声が大きい、怒鳴ってるわけだ。
それを日本語では「怒る」とか「叱る」っていうわけだけど、でも僕の感覚的には「ごしゃぐ」っていうのはもっと単純な感情の爆発、ヒステリックな現象なのです。感情のうねりを制御し切れなくて挙動が変になる、怖い、殴られる、謝ろう… それが「ごしゃがれる」。

それに対して、「くらすける」っていうのは何かをさせよう・させまいという意識があってなされる。これはちょっと許しておけないとか、謝らせようとか。それを強制するために痛い目にあわせるわけで、いわゆる動物の躾です。
ところがそれは意図した行動なので、例えば僕が悟って謝るような先手を打ったりできる。逆にそれほど怒ってもいない時、単に「困ったやつだ」という意思表示のために、「くらすけっぞ」とか言う。

何か意図したことがあることは分かるわけです。それ自体を理解できなくても。
ただ、表現として「痛い目にあわせる」ことだけを取り出しているので、これはやはり、主として理不尽な様相を呈する。
だって大抵の場合、殴られるのは「ごしゃがれて」いる時なので、わざわざ言及するということは暴力自体が不服ということですから。


んー、こうして思い返してみると、「くらすける」=「殴る」という用法は祖母が盛んに使っていますね。
例えば、昔の尋常小学校の先生は滅茶苦茶だった、何かあるとすぐに先生から「くらすけられた」というような。

考えてもらえば分かりますが、ここでは「先生」が何か理解不能の理不尽さで殴っていたということを指して「くらすける」(すなわち、殴る)という言葉が使われているわけです。
今日なら「不合理な体罰」くらいの意味合いだと思います。


何がいいたいのか曖昧になってきましたが、つまり、人間はふと昔の暴力を思い返して「許せん」と思うことがあるわけですが、これを「叱られたのではない、怒られたのだ、だから不快なのだ」と無理に解釈した輩がどこかにいて、爾来「叱る」と「怒る」の「違い」が玉条のように重んぜられてきたのだろうと、そう思うのです。

それに対して僕は、感情が発露すれば「怒る」も「叱る」も関係なく「ごしゃぐ」だけれど、記憶の文脈にあてはめて理解できない暴力の行使を「くらすける」としているのです。

要はね、当事者の意向なんて関係ないんです。
後になってから、「あれはなんだったのだろう、分からない」と思い出すことが僕の「くらすける」という言葉の本質であり、その言葉が日常のポジティブな面と結びついて語彙体系になっていること、これが決定的に記憶の色合いを華やかにしているのだと、そういう風に感じているのです。

だって、「殴るぞ」と言われた、あるいは「殴られた」なんて記憶があったら、気が滅入りますよね。
ところが「くらすける」という言葉は、僕の中で完全には「殴る」「叩く」意味として把握されていない。

そこには遊びがあるわけで、今になって想起してみると、そういった不確定さが記憶を薄れさせる効果は非常に顕著だったと思う。
僕だって思春期の頃はね、知で知を洗う… ではなく、それなりに暴力的、かつ逆恨み体質だったわけですけど、そういうものが過ぎ去った後になるとすっかり忘れ去るのは、記憶に責任を持つような強固な言葉一つを抱えて育たなかったことと、決して無関係ではない。


そういう意味では、もし仮に、親が「これは叱られてるんだよ、お前は悪いことをしたんだよ」なんて題目のように唱えながら暴力をふるうなら(というか言葉だけの場合も)、もうそれはトラウマなんて次元では説明できない悪影響があると思います。
成長した後で、他人を「叱る」ことが出来なくなるか、同じことをするかの二極じゃないでしょうか。

だいたいね、「理論的な子供の人格」を「理論の価値」で形成できるなんていうのは思い上がりであって…
理論の基礎を力ずくで植えつけ、その暴力によって他人の世界を統べる安逸に浸り、自己の無意味無能の長命の根拠を手に入れるため、大人というルサンチマンの解消の贄に「他人」を奉げるという、恐るべき悪徳をなしている自覚がまるでないと言える。


幼少期に「叩く」ことに意味や必要性があるかどうかは、全く分からないし興味もない。
だが、厳密さに欠ける暴力を織り交ぜて育てられても、その論理的な瑕疵のために人格が破綻したりすることは全くないと、それだけは断言できる。むしろ論理的な完全を子供に期待するのは間違いである。

タブラ・ラサに罫線がないと怒ってみたところで、だからどうなるいうのだ?
力強く書き込みを加え、子供を大人にし、ルサンチマンを再生産するのが、親という理不尽の責務ではないか。

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