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暇なので仕方ないと思うんだ。
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「生まれ変わる」っていう発想は、何のためにあるかなあ。

十全に支配可能な「自分」を求めるのだろうか、たぶん。
生まれ変わる、というのは別に、死んでまた生まれるという意味でもないんですよねえ。死んでから何かがあってまた生まれる、そういう過程はどうでもよくて、変更可能な「自分」が今ここにいればいいっていう、ただそれだけの表現ですから...

してみても、「生まれてくる」ことが文脈からの解放であるかといえばそうでもないし。
生まれたその時から一つの流れに絡め取られているのが人間の生だし、そう感じることも多い。だからこそ生まれるところからやり直したいと、そういう考えはある点においては論理的だけれど。

でもそういうの、好都合じゃありませんかね。
生まれた瞬間までの有り様で、今ここにある自分の全てを否定的に弁護するなんて!

だいたい、論理的な破綻なんてどうでもいいから「今ここを変える」っていう、その意思をどうしてもっとこう...
人間にこういう事を語りかけても無駄なのであろうか、文脈から自由になるだけの贅沢を持った人間に、文脈を信じるだけの純真さを捧げ持つ人間に。


ちょっと前に好き嫌いについて何か書いた気がします。
今日、南北線に乗りながら考えてて思いついたんだけどさ。閉じた関係だっていう風に恋愛を語る人がとっても多いですけれど、じゃあ開いた関係ってなんぞと思ってね。

違うなあ、あれは結局、相手が自分と同じ視点から同じ世界を捧げ持っていることを観察したいだけなんだ。
あれは相互関係なんかでは全然なくて、互いに「一方的な支配」をやらかし合ってそれを許容しようという、そういうもんだ。

つまりそう、ミニマムな意味での世界支配だと言えるのではないかと思いました。
当人の感覚としては全てを支配しようという方針を打ち捨てるために、だけれども事実としてはあべこべに、世界を狭めて共同で存在させるのが恋愛。「今ここで同じ世界を存在させている」という考えが、常に世界を存在させるべき者として生み出された「神様」を超えて、人間が世界に干渉していける権能回復の理由なんじゃないかなあ。

恋愛が宗教的タブーを容易に放棄させるのはたぶん、普遍的な事象だと思うんですよ。
ミニマムな世界支配としての家庭と、事業として世界の存在を認定する社会と、やってることに質として違いはあっても云々。

世界を狭めて存在させる時の礎石が連れ合いに他ならないならば、これは別に性別は関係ない。
だけれども、支配権を回復すること自体を一つの擬制として繁殖行為に取り入れた社会というものを想定するならば...


そこまで狡猾な仕組みがあるとは思わないけどね、僕自身は。
だけどもし、存在せしめる世界の物理的広さが権能の強さという外観にかかわりを持つならば、野山を駆けずった男という性が、家を守った女という性を「存在させる」側に回ったとしても不自然ではないよね。

こういうことを考えると女が優越するためには精神的世界の広がりを述べなければならない。
要は自分が存在させる世界に対して、相手が不可侵であると確信し相手を世界の一部分として存在させるという行為そのものが、相手が相手の世界を存在させることに大きな影響というものをだね。


...もう寝よう。
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