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暇なので仕方ないと思うんだ。
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ネタ切れってやつね。
もういいや。



つまりさ。
抽象化っていう方法、これつまり概念ですが、これがなかったら人間なんてチンパンジーの亜種ですよ。

で、その方法を僕らが獲得した背景というか環境というかは必然的だったわけで。
着々と遺伝的に進歩してきたわけです。

しかしここで大事なのは、よく理系の人が言うことなんだけれど、必然だったのは結果的に環境を後から観察してみたときに分かることであって、進歩の内容とか進歩があったこととかは必然じゃないんですよ。
たまたまそういうものがたくさんいるように、結果としてなっているだけでね。


それで、つまり概念という方法が採用されてるのも偶々なんですよ。
ていうことはさ、大事なことは、その方法の結果もまた偶然の産物なのではないのかい。

たとえばだ。
矛盾という概念があるやね。

これは普通、矛盾という事実があるところへ観察者としての人間がやってきて、それを矛盾と名づけたんだ、という解釈がなされる訳よ。

しかし僕が思うに、それは違う。

矛盾なんていう事実はないんだ。
というか事実という表現が人の方法論を支配してわかりにくいんだが、実在するのは(最大限譲歩したとして)現象世界ただひとつだ。

昔、あらゆるものはわれわれの観察の結果であって、実在がどうとか存在がどうとか言った人があった。
それは、感覚的に似ているが違う。存在するかしないかという議論が成立する時点で、その世界は観察されているからな。

僕らはそういう見方、つまり、物があるのかないのか、晴れているのか雨なのか、木々が美しいか否か、そういう概念抜きに世界に接することはできないんだね。
接するというのは漠とした表現だけれど、つまり、ただ現象として世界のなかに一緒になって収まっていることは出来ないんだぜ。

君たちは客観というものを知っている。
それは何だ? ベン図で説明してみてくれないか。

僕という領域の中しか、僕は知りえないはずだろう。
何故僕の中に僕の外があるのかね。

他人の主観というものも知っているだろう。
何故僕の中に他人の領域がすっぽり納まるのかね。そこには僕に関する世界が全部収まるのかね。


意識できないくらい緻密に、僕らの世界は僕らそれぞれの視点から作られている。
僕の概念は僕という世界では精密に動作するが、2つの個人をまたいで正常動作する仕様にはなってない。


話を戻そう。

矛盾というものが存在するというならば、それは偶々概念が出来てしまったというだけだ。
僕らの祖先が何の気なしにそういう概念を作ってしまっただけだ。

概念は偶然に出来るが、以降は概念として方法になる。
つまり、考え方が模倣されて反復されるのだよ。

アウフヘーベンというものは一人が編み出した方法だ。
それが模倣されて共産主義は必然になった。そこに必然はない。しかしマルクスが論理を唱える上で、諸理論の完備は必然だった。

今や多くの人が、共産主義は必然ではなかったと知っている。
しかしマルクスに至る思想家たちが必然でなかったこと、あらゆる概念、方法が必然ではなかったこと、そういう風に論理が展開していかないのは何故だ。

それは必然的な環境があったからだ。
しかしその流行に必然はない。だから僕はそれを受け入れない。


僕には知らないことがある。
世界の国旗を僕はほとんど知らない。しかし、知らない世界があることを知っているし、知っていることは知っているし、全く知らないことは判断しようもない。

ということは、僕は全知全能だと叫んでもいいのではなかろうか。
僕という世界の外に、つまり全く知りもしないものが存在しているかどうかということを、誰も知らないのだから。

未知、というのは極めていい加減な概念だ。
もうしつこいくらいに言うが、「知らないものがある」なんて概念を設定することに必然性はない。

君が知らないことなんてあるのかい。
言ってごらん。君の知らないことを。


知らないものがある、と、誰かが思って概念が出来た。
そしてそれは方法として多数の人に使われて、未知が存在するという証拠とみなされた。

だって未知に対応するものは全知、即ち神だ。
未知という方法が全知を導いて、そのユーザーに神が納まったのさ。



僕と君は理解しあえない。それを僕も君も理解している。
この事態は矛盾するだろう、しかしそれが何だというのか。

矛盾など、誰かの思いつきに過ぎん。
何故それを離れて世界に触れられないのかね、人間というものは。


僕の説は矛盾しているところがある。
だからなんだと言うのかね。僕は矛盾と言う概念、それそのものを採用しない。よってその方法で僕を論じるのはただの不適切な論理と言うものだ。アニミズムでマルクスを論じるようなものだ。

僕が今の学者を嫌いなのは、極力否定されないようにどうでもいい研究をする者ばかりだからだよ。
他人の説に矛盾しないようにと、環境の必然に流されて活動しているんだ。つまり、彼らなりの必然の予想に従って、と言う意味だが。

そういう環境が僕の発送にとっては必然だった。
ただ、彼らとは読み取り方が違ったというだけのこと。



それは全知をうらやむ態度、すべてを語りつくさんとする神の座への志向だ。

故に僕はニーチェを好む。
神は死んだ。そしてその全知も。

今や人は旅立たねばならないんだろうと思う。そう、概念のオンオフを統御することによって、擬似的にであれ世界と直に触れることが出来る場所へ、超人の場所へ。
それは教育が必要だ。今の僕がこうして世界を幾万の方法で観察していること、その全ては偶然の産物でしかない、支持さるべき根拠など1つもないものであるということ。そしてそれ故に、いかなる物にも正当性が与えられていないがために、僕は全力で僕を支持することも出来るということを。

僕は僕を支持する。
何故ならそれが正しいと感ずるから。

そこに理論はない。
僕をフロイトで説明する人があるだろうが、それは何の問題にもならない。

何故なら僕が問題がないと感じるからだ。


全てに根拠がないのならば、つまり、君たちが根拠と思うものを形成する概念も観察も、その発生に必然がないというのなら、現状を全く支持すると言う人を妨げる根拠は最早ない。

ヒトラーもアレキサンドロスも、全力で自分を支持すればいい。
僕がそれを否定することもまた自由だ。


その関係は、僕と言う視点から同時に観察すれば矛盾する。
だからなんだと言うのだ。矛盾はただの方法の1つだ。パンの焼き方と同じことだ。知らないからといって、出来ないからといって、無視されたからといって、何の議論も巻き起こる必然などない。

君たちは累々とした偶然の産物で要塞を作って大砲を撃ち合っているに過ぎない。
結局、目的は自分の生存だ。いい加減に動物ごっこはやめにするのだな。



終わりが見えないからやめる。
深夜のテンションでこういうものを書いてはいかんね。おかげでこれ以降の記事はすかすかになった。
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